息をしていた、一人称の私。

1年間が経過したこのブログを1ヶ月放置したのもこの1年で初めてだった様に思います。生きていると色んなことがあるってこってすね。
一日一日が長くて仕方なかったりとか色々前進して嬉しかったり、更に先の事を考えて今は希望にみち溢れているけど同時に色々な事に対して覚悟していたり、一歩一歩進んている事を確認して息をしていた毎日を過ごしていました。

子猫を衝動的に拾って飼っていたり、浴衣で万博に入園して生意気に闊歩してみたり、退職したり、青島旅行に行ってみたり、ついったを(外的要因により)中断したり、リアルコミュニケーションしてみたり、遂に海鴎カメラを買ったり、この6年弱では相当イベント盛りだくさんの一ヶ月だったのに。

日本に帰りたいって言うこの決意が本音なのか、決めた事だからって固執しているだけなのか分からなくなってみたりしたけど、帰国の予定を思い切って1週間変更した。今は変更した日にちを数える事がツライので考えないようにしている。楽しく過ごせるかどうかは当日その瞬間に委ねないと全て台無しにしてしまいそうなので考えないようにしている。

今年の目標の一つにリアルなコミュニケーションを一歩先に進めるって宣言したけど、私は一歩に何を求めているのか分からなくもなってきた。それって一歩‘前’なのかも分からない。今、わたしはマニュアルとか情報とかの先入観が全くない状態だなーって思う。それが正解なのかよく分からない。今感じる嫌って事が不正解とも思えないし、良いって思う事が正解とも思えない。全てが疑わしい。

一人称でいることに慣れているから、今はそれが居心地が良いし、故にそれが私にとって良い事に感じている。でもそれは今の私から外に出る事を拒んでいるって意味で一歩前に進めてないってことなのかな?でもその近寄り方は理想論だって思うし、その道を進めば崖は必ずやってくる。私は予測できる崖までの距離を保つこと求めているのか?崖が現実にやってこない為の解決方法を求めているのか?よく分からない。

とりあえず一人称を保つためについったに戻ろう。少なくとも今は(今後変わることを祈っているわけでもないけど)一人称の私しか信用できない。