人は気づいたら変わってる

胃が痛くて胃薬飲んでも眠れないので自分の日記を振り返って読んでみた。エモw。

過去の自分、恥ずかしいし何言ってるか分からない所もあるけど、語彙力も表現力も当時自分が思ってたよりある気がするし、なかなか面白い。

このダイアリー(今はブログになったのかしら)には本当に助けられたな。語彙力、表現力鍛えられただろうし、Twitterとかhatena diaryで一人前の大人としての精神性を身につけられたと思う。本気で。

以前の日記は6年前とかで、6年って数字だけ見るとそんなに大した時間じゃない様に思えるけど、体感でははるか昔に感じるし、あの頃の私と今の私別人過ぎて自分でも驚く。確かに連続しているはずなのに、なんだか脳みその構造が変わってしまったかの様。たぶん本当に変わってるんだと思う。不思議だね。

しかし最近のnoteとかとhatena diaryと雰囲気全然違うね。インターネットの世界も時代によって移ろう訳ですね。

日記を非公開にしようかと思ってきてみたけど、まぁいっか。

足し算と引き算しかできない

いわゆるアナログ人間なんだと思う。自分の生活圏内、物理的、ネット的を含むとしても、自分を中心として手の届く範囲の人としか付き合えないんだなーという事をつくづく感じている。しかも付き合いたい人としか付き合いたくない。時間の無駄になる人とは付き合いたくない。世界が極端に狭いなーって思う。大事な人にフォーカスしていたいから別に悪いとも思ってないけど。
「仲間」として捉えていた会社がここに来て「組織」になり始めた。個人的に「付き合うだけ無駄」な人が大勢存在し始めた。適応している仲間の中にも「組織」の方が居心地が良いと思う人も当然いて、ただ自分は「組織」に適応するの大変なんだな。って感じている。4月に自分の偏見具合に疲れているけど、結局その考え直ってないのか。ってここで書いていると気がつく。というか、今思うのは、その偏見直す気ないんだな私。
それよりも重要だと思うのは、自分の周りにいる人だという事が変わらないし、周りにいる人に集中して大切にしないと、今の自分を大切にできない。って思っている。
その感覚だと「組織」の「レバレッジを効かせる」みたいなやり方にはどうしても違和感を感じてしまう。それってルールを相手に仕事をしてるって事?
「そんな理想的な事言ったって。現実見ろや。」って、皆バランス取って常識的に自分の食いぶち稼いでるのかもしれないけど、嫌だなって思っちゃったらしゃーないじゃん。馬鹿は馬鹿なりに思考停止しちゃえば楽なのに、中途半端に色々察知しちゃうから面倒くさいわ。

質の悪いパターン

以前の日記で「発作的に行動をとって失敗を正当化する開き直り」をやめたい。って言っていた事がある。今聞いてもすごく情けない自分なんだけど、感情に任せて脅迫的に自虐的に「有りか無しか」という行動を取ることがある。この数年、そんな自分はもう克服した気になっていて、うっすら忘れかけていたんだけど、ここに来て馬鹿丸出しな「有りか無しか議論」をやらかした。私のお決まりパターンだ。この極端思考になると、徹底的に貫かないと納得できなくなる。意地っ張りな自分のしょうもない人間性なんだろって思っていた。が、これは自分が思っている以上に質が悪く、根が深い問題なんじゃないかと疑い出している。

この前アンケートで「1・2・3・4・5」から程度を尋ねる質問に答えると、「1」か「5」しかなくて、それを見ていた一緒にいた人が「そういうハッキリしてるとこ良いね。」って言ったもんで、これは特徴的な回答なんだなって事を思った。そう言えば普段からどちらかハッキリする事が気持ちいいと思っていて、スッキリするからハッキリするようにして来た。

そういえば別のシーンも思い浮かぶ。欲しい鞄や服や靴が見つからない。って話を何年もするもんで、友達が「あなたは欲しいアイテムの仕様を事細かに決めすぎなのよ。」と言った。確かにそうかもしれない。以前自分のあまりの浪費家っぷりに反省して「今買う必要のある物だけを最低限買う。」って当たり前の事を決めたんけど、それが高じて、今はほとんど物を買わなくなったし、買えなくなった。買えても下準備がものすごく大変になった。でも嫌じゃない。無意味な物にお金を使いたくないし、物を買った時は楽しいと思える様になったので、この方法は気に入っている。

意見が曖昧な自分は嫌だったし、浪費家な自分も嫌だったし、自分の周りにある物は、物事1つ1つまでに自分の意志で存在して欲しいし、気持ちいい自分になる為に納得ができる考え方は取り入れて実行してみようと思ってる。これをやっていて良い影響は沢山ある。人が作った物、作品、話、色んな事に込められた意味や意志を感じられるようになったと思う。自分の周りにも、その結果が反映されてると思う。好きな人に囲まれている。自分のフィルターで判別された好きな物と人とだけ関わっていれば良い。それが人生なんだと本気で感じる。一方で、それは事実上の偏見という事だ。好き好んで偏見の世界にいるんだ。私は。

この偏見を基にすると、人や物事や行動には必ず理由とか意味があるはずなんだけど、意味がない場合とか、見えない場合に「理解できない」と感じる。それが好奇心になる場合もだぶんあるけど好奇心に働かなかった場合、私の中で「無駄」となって排斥される。人の場合は関わりを最小限に収める。収まらない場合、例えば会社のように関わる人を選り好みできない場合、自分の関わりの中に「無駄」のノイズが交じるので害された気持ちになる。感情に影響する。
こうやって書いていると、とんでもなく我儘で身勝手な思考なんだな。我ながら信じ難い。事実なんだけど。

自分の価値観に囚われすぎて感情を左右されすぎる。人間関係でいちいち一喜一憂しすぎる。この1年でのグチャグチャの頭の中で最近思った事だった。友達にそれを話したら、『人と本音でぶつかってるって事なんだろうけど「人に期待しすぎなのよ。」私、他人がどうとか基本的に興味ない。』って言われた。そうかもしれない。「人はそれぞれ」って思う一方で、それが自分とは無関係だと判別されると、いちいち「嫌い」になっていた。100歩譲って「無視」ならまだマシなのに。

そもそも、自分のこのmessyな情況を説明できない事そのものが嫌でストレスで「無駄」を孕んでいる自分が「嫌い」だった。「理由」が分からないからお先が真っ暗だった。今はこのダイアリーに色々書けるようになって、やや戻ってきいる証拠なんだと思う。書ける言葉が見つかりだした。この説明癖、嫌いじゃなかったし、快適に過ごすための処世術みたいに思っていたから、それがこんなに影響しているのは自分に対する脅迫の様に感じる。本当はこんな説明しなくても良いのではないか。って今思ってる。同時に、人に同じように「尋問」している可能性が高い。

昨日休憩室にパソコン持ち込んで仕事してたら、社長が通りかかって、私の事を見て「俺ら◯◯(社名)の鬱病コンビだね。」などと突然抜かして来た。通りすがりのセリフにしては意味不明なのですぐ反応できなかったけど、「それ、対外的にヤバいですね。」ってとりあえず答えた。確かに病んでるんだろうよ。この状況。ともかく、鬱病は言い過ぎだとしても、たぶんノイローゼとかそういう事なんだと思う。社長も去年から色々と苦労をしているのは知っている。今は回復しているのかどうかは知らないけど、少なくとも仕事っぷりはカムバックしている様だ。私が以前の様に仕事に情熱を持てなくなっているのは残念ながら事実なんだけど、とりあえず、日常の中に細かい網の目の様に張り巡らされた自分のこの質の悪いパターンをどうにか緩和させて自分を追い込むのをやめよう。

麻痺してるっぽい

人に迷惑かけても、適当な仕事してお客さんに怒られても、平気な顔してる自分がいるって気が付いた。今年に入ってずっとそんなだ。夜な夜なテトリスやったり、どう考えたって正気じゃない。
そんな自分情けなくて悔しいはずなのに、大人なのに甘っちょろくて、恥ずかしい事なのに、なんにも思ってない仕様になってる。何かを麻痺させてる。会社の事は自分なりに昇華して、元気に皆んなと明るくいられればいいと思って、最近はご機嫌でいられるから、良かったって思ってたけど、根本的に何も解決してないんだと思う。やっぱりこんなのおかしくて、このままでは現実から遠のいていって、自分をどんどん消耗していくんだ。

嫌な事

取り敢えず毒を吐き出す。1年前から色々ありつつ、どうにかやり過ごした事はとりあえず省いて、今現在の毒について。
たぶん会社の事と家の事が原因。というか、それって日常の99.9%だ。
【会社について】
会社の現上司みたいにはなりたくないので、関わりたくないが関わらざるを得ない事が辛い
営業と内勤の間にとてつもなく深い溝があって意見(というか視点)が交わらなくて言葉が通じないけど、どうやったら伝わるのか考えてる
会社の中で信用できる人がいない
【家について】
引っ越し後に部屋にダンボールが片付かず汚い事が嫌
インターネットの手続きが不可抗力で進まない
持ってる荷物の量を見つつ、設置場所を測ったりしながら最適な家具を買い足す作業に時間がかかる
※1番上の悩みとのループ
こうやって書いてみるとどうでもいい事な感じがするや。

こんがらがりを少しつまみ上げてみた

相変わらず色んな事が混乱していて、絡み合っている日々。もう絡み始めてから1年経つかもしれない。だけど、もしかしたら、そんなこんがらがりを放置してるから、益々こんがらがるのかもしれない。分からないなりにやってみると、解けるかもしれないし、余計にこんがらがるかもしれない。でも放置してると、どこにも行かない。
2014年のエントリーが2つだったのは衝撃だった。何を書けば良いのか分からないし、物事がぐちゃぐちゃ過ぎて愚痴なのか、歪みなのか判別できないし、書きようがないし、面倒くさいし書きたくない。でも今日書こうと思った事がこれまでと違うと少しでも評価したい。評価したいと思える事も、これまでと少し違う。この積み重ねがどこかに繋がっているはずだと信じたい。
大事な人を大事にすると誓っていたにも関わらず、その心の余裕を越えてきた現状がやっと分かったし、いよいよなんとかしなくてはならなくなった。切羽詰まった風な表現だけど、つまりここに纏めて頭をはっきりさせなくてはならない。