離れている人のことが大事だと思ったりする不思議現象について。

暇だと人はごちゃごちゃいろいろ考えるんですよ。ギリシャの人がごちゃごちゃ考えたり、日本の華族とかが外国行ってなんだかんだ学んだりね。暇な人は考えるんですよ。で、私はそんなご身分ではないし今週の土日も休みじゃなかったけどごちゃごちゃ考える暇だけはあった。

最近、大事な人についてよく考える。大事な人って普通だったら家族とか友達とか恋人とかなんだけど、それってふつーに自分のリアルの生活と近い人の事だなって気がついた。普通は「大事な人」って言ったらそういう範囲内でのことなんだけど、最近、私には、自分のリアルな生活とは近くない所にいる人の中にも大事な人がいるということが分かって、それは大変なことだと思ったのだった。

リアルな生活上で、家族とか友達とか恋人とかの存在が重要っていうことは常識としては分かるんだけど、でもそこでも関係があんまり上手くいっていないって人も現実にはいたりする。表現の問題もあるから表面上だけで上手く行ってるとか上手くいっていないとか簡単には言えないけど、とにかく色んな理由で単純に大事に表現できない場合もある。

たぶん誰かしらどこかに、上手くいっていない関係を持っているかもしれない。思い浮かぶその誰かも、自分もきっとどこかにしっくりこない関係があるんだけど、例えば仕事のお客さんとか、通行人とか、リアル以外のところで誰しも他人にほんの少しでも尊敬されたり感謝されたり頼りにされたり安心感を与えたりしている可能性があるなって思った。それは時間にしたら一瞬の関係だし、顔も合わせることなく終わる関係の場合のほうが多い。で、それで何が言いたいかって言うのは、それはついっただと分かりやすくて、私とあなたの場所はそれぞれにあって、それぞれそこから発していなければ繋がりようがなかった場合、無理やりにリアルの生活の場(ついったもリアルの生活の一つなんだけど、狭い意味で)の営みに組み込むことがコミュニケーションの前進ではないかもしれないって思ったのだった。これは、一緒に生活していることを重点にしている関係とはまた違う方法で、一見あんまり重要な関係ではないのかもしれないけど、そういう繋がりが私の一日の気持ちや、機嫌や考え方を左右するのは本当の事だと思いませんか?メールの文面とか電話の一言とか声色とかから影響受けて一日の自分があったりする。そんな風なんだから、帰る場所にいる人や触れていたいと思う人や同じ場所に帰る人なんかも同じ空気を吸うという意味では大事なんだけど、それと同じくらいに私の位置とあなたの位置からの関係は大事なコミュニケーションなんだろうと思った。

もしかしたら独りよがりで都合がいい関係を強引に正当化する考え方なのかもしれないけど、私の感情はリアルだし、少なくとも相手はbotじゃないし、どこかで確実に生活してて今は残業中かもしれないし寝ているかもしれない。友達と飲みに行っているかもしれないし彼氏と会っているかもしれない。その人に触れられないことが少し寂しいって思ったりするけど、触れるコミュニケーションは危険すぎて、大切なものを大切にしきれなかった時はもっと悲しい。そんな風に思うから、近くにいる人を最大に大事に思えて大事に表現できて触れてもなお大事を表現できる人っていうのは奇跡みたいに幸せだと思う。

こうやって本気で思う。確かにそんな風に素直に表現できる人のことを少し羨ましく思ったりするけど、例の我慢ができない状況に陥った時のことを考えたら、私は私で、こういう関係に結構幸せを感じたりする。人はこれを思考停止状態と言うのかな…?私はまぁまぁ幸せだし元気だしこういう程度の自分のこと嫌いじゃないんだけど、目標にしてたもう一歩前に進ませたいコミュニケーションっていうのはこういうことなのかな?違うのかな?