暇な場合〜「美」はどうなるか〜
友達が昨今の美意識について憤りを感じています。
いつ会っても最終的に今の「美」に辟易しているのです。
でも、あの人は自分では生まない。正確に言うと「本当に見たい・欲しい美」は生まない。生むのは「売れる美のような(場合によっては美になる)もの」。
そう自分で決めているのです。簡単に言ってしまうときっと「美」も欲しいけど自分は「肉」でできてるってことを知っている美しい人だから。
それでいいと思うんだけど。
あの人に言わせると、『あなたは現状にあるもので満足して、生きるとか死ぬとか根本的なことを盾にしなくちゃ向上することのモチベーションも上げられなくて、生み出すことができない。何に憂いているのか分からない。貪欲ではない意味が分からない。』
いつも悟ったようなこといってむかつかれる私ですが、実はそんなのはみんな詭弁で、それでも何だかんだいつも言い訳しちゃう。結局、回りまわって奇麗事なんだ。私の場合。
でもあの人にはびっくりする。なにその素直さ。
一言で言うととても強い。愛されている。正直。
こんな人がいるんだ。こんなにまっすぐ生きる人が。こんな人に比べたら私はどう考えても不健全だ。病気だ。確かに(その人が言うように)変態だ。
でも健全コンプレックスで健全を求めるから、たまに健全な人が私のことを見間違えて近づいてきたり、私も魅かれてしまうんだ。
あの人は、私を悲しくさせない。
皆違う。そんなこと当たり前。って気が付かせてくれる。
じゃあ、一体具体的になにができるっての?勝負はそこから。
って気が付かせてくれる。
私も知らない人が過去に貼ってったたくさんレッテルを持ってる。
ここに来てもたくさんの周りの人がレッテルを貼る。
であの人も貼ったね。
「クラスの女子」「粘着性」「変態」。。。。他にもけっこうたくさん貼ってると思う。
でも、あの人は私を追いやらない。私にレッテルを貼って私と一緒に何かを覗いてる。私もあの人の何かを覗きたいくて、でもすごくたくさん操作が難しいレンズで、操作が分からないから教えてもらいながらたまにあの人が見てる何かが見える気がする。
そんな風に私のことを追いやらないんです。
自分自身がやっぱり、どうしようもない人だなってよく思います。私は必ず自分を超えなくてはならない。
業にも似た試練に感じるけど、実際は本当にどうでもいいことなんだ。色々大げさすぎるだけ。分かるのはコントロールしなければ飲まれること。
コントロールしているつもりでも全てはすっと気が抜けた瞬間。
だから抜いてはいけない。生きているうちは気を抜いてはいけない。気を抜けばこれまで気を抜いてこなかったことが全部ゼロになって時間の法則だって無効になるから。
絶対に抜いてはいけない。
だからなのか。私は過去をすぐに忘れるけど、そうしないと現在に集中できないような感覚になる。
何度も言うけれども、戻りたい過去なんて一つもないし、「もし」なんて恐ろしい言葉は絶対にありえない。
君と私は違うから。はじめから違うから。私は私の肉眼で見えるあなたしか知らない。言葉は絶対ではない。その肉体でしか証明できないでしょ。そうでしょ。それが大前提なんでしょ?
自分を使って表現しないで、自分が体現しないで、自分が幸せじゃなくて、他人の幸せを願って実現して、それで自分は????
自分がなかったら美もありえない。
自分の理想の形がなければ美はありえない。
理想に貪欲でなければ創造も生産もありえない。
敗退に美があるのかって話は分からないからしない。
少なくとも今の私は発展的な美を必要としているってだけ。
それでモチベーションは十分なんだろう。ここには皆がいるから。安心してそれを糧にすればいいってことでしょう。