歌う人

今日は思いもよらず事故的に爆発が起きかけました。
自分でも全く起こすつもりのないタイミングで、カチンッときてしまったのです。

カチンッは色々なパターンがあるように思いますが、今日は少々強気なカチンッでした。エゴが前に出たというのでしょうか。

でも、あの時にカチンッが来なければ、まだ掴みきれない勢いを逃して完全に色んな事をごまかさなくてはできなくなってしまうところだったかもしれません。

実は今日、もう一つ爆発がありました。何もない人が何も出さないことに関して。

私と何もない人には何もないのです。二人ともまだ種は出し切っていない。
(厳密に言うと私はもうポケットに手を突っ込んでその種の数を数え、ほぼ手に握りかけてはいる。)

そんな何もない風に見えるその人は、種の観察日記を付けない。
ここにはルールはないから、種の観察日記は確かに義務じゃない。
何もない人は何もない状態で何かを感じて、その日記を付けているかもしれません。

それは毎日ではなくとも、観察日記を開いている。という行為からも見受けられるのです。(その動力は努力なのでしょうか。好奇心なのでしょうか。日課になっているのでしょうか。それはまだわかりません。)

そこに、少しづつ、何もない人は自分の種の様子を描写します。
とても控えめに。

私はすごくもどかしくて、それって何の種なの!??って直接聞きたい。

この観察日記はたくさんたくさん書き続けてもなかなか立体的に建設的にはいかないものなのです。

たくさんの種があり、似たような成長過程があったかと思ったら、全く違う匂いであったり、太陽が必要なのか、月明かりが必要なのか、台風で喜ぶのか、肥料は大目がいいのか、皆違うからです。それを総体的に見つめようとしてみてください。きっと観察日記の話題は広がりつつも、行き着く先がわからなくなって来るのです。

ともかく、私と何もない人はそれぞれにその観察日記を付けることに決めましたが、実は観察日記の付け方がお互いに違うことに気がつきました。
何もない人は何かを見ようとしているかもしれない。

それは行動からそう信じるしかないのですが、少なくとも定期的に観察にやってくる。何かを探しているかもしれません。


そして私は、何もない人が何もないそぶりで何も見せてくれないことにいらだっています。

種の色だって、匂いだって、形だって、知りたい。
私の種の光かただって、大きさだって、数だって、見て欲しいし、感想を聞かせて欲しい。


そんなイライラと焦燥感で夜、お腹が空いた私は近所にある24時間チェーンの軽食屋の前にタクシーを止めてもらったいました。
本当はオフィスで食らったファーストフードの食事のこともあったので食べるべきではないな。と思いましたが、何か口に入れないと落ち着かないような気持ちでした。

そこは深夜営業特有の、アイドルタイムの清掃をしていました。
女の子が2人、お店の中を箒で掃いて、もう一人がモップがけをしています。

レジの中では若いバイト風の男性と制服のポロシャツと帽子を被った調理係のおばさんとレジの男性です。私がレジの前までお店の中に入っていくと、ちょうど電話が鳴りました。

レジの男性が出前の電話を受けている間、清掃は続きます。

いつの間にか周傑倫の「簡単・愛」が掛かっていて、リズムを取りながら「あぁ、簡簡単単・愛〜〜」って歌う自分がいます。懐かしい歌だなぁ。と思いながら。

テイクアウトを頼んで、席に座って待っていると、深夜作業の静けさから、控えめに、気持ちの良い、音程を外さない音でレジの男性が歌っていました。

いつもは仕事中、しかも接客業の店員さんがこういうちょっとズレたリラックス加減を醸し出していると、ムカついてしまってしょうがないのですが、何故だろうか、とても気持ちいい。

もちろん彼の歌が上手だったということはあるでしょう。
こんな状況で、素敵な歌声を聞いている。

こんな慰め方はきっとここにいる特権であるに違いないと思いました。

私はここにいて、こんなに上手な歌を聞いていると思ったら。
それは悪くないと思った。あの種が見えなくて、繰り返しの感情にイラつくけど、今私はここにいて正解なのかもしれません。

そう思ってとても気持ちよかったんです。