年末を過ごすありがたさ ミゼラブルな日本のイメージと希望

映画の「レ・ミゼラブル」を観た。ミゼラブルな話しなんて絶対泣いちゃうし、他にも見ない理由はいっっぱいあったので、誘われた時は「そうか。観るのか。」と思いつつ、誘ってくれた人が楽しみにしてたので、その「楽しみ」の方に賭けて観てきた。結果、思った通り馬鹿みたいに泣いて、思った通りショックだったけど観て良かった訳。とても良かった。
少し怖いと思っている事があって、それは漠然と感じてる恐怖で、今それが色んな所で具現化している様に感じてる事。色んなところでの私や誰かの無意識の行動や思いが実現してきているのかもしれない。
例えば今回の「レ・ミゼラブル」という映画。先日終わった衆議院議員総選挙の後にこの映画を観ることになるとは、なんて皮肉なんだろう。と。映画の中で民主主義、平等、自由、権利が欲しくて戦った若者もそう。厳しい自然環境と飢えとその日暮らしでいつ死ぬか分からない、理不尽な国という重圧から抜け出したい貧しい民衆もそう。彼らを見ててただ思うのは、私達自身は、日本は、どうやってこの民主主義の国を手に入れたのか?私にとってフランスの若い革命家の事とか全然どうでも良いことなんだけど、少なくともそのフランス人はそれがとても欲しかった。志半ばで人生を終えてしまう若い命もあった。でもそれがとても欲しくて行動に移し続けた。その意思の連鎖が今日の民主主義につながっていて、文明国としての今を築いていて、情報のグローバル化に伴って、結果遠い極東の異国にも影響を及ぼしている現実。単純すぎるかもしれないけど、そう感じた。
で、今回の総選挙。投票率過去最低。別に見ず知らずのフランスの革命家に義理を感じて投票しろや。とは思わないけど、果たして私達はかつてのフランス人や、その他の人達の苦労の上にあるその仕組みに関して、それだけの覚悟と責任と意味を感じて投票権という成人に与えられた権利を使う社会にいるのだろうか。と。選挙のシステムの問題とか、本来の意味での政治家、リーダーの不在とかそういう色々な事はあるけど、では国民はどこで意思表示をするのか?自分の国をどこに進めたいのか、投票をしない代わりの行動って何か。どうしたいのか。

落語を聞いているとお正月を過ごす事ができるありがたさをとても良く知る事ができる。私は暖房のない冬の江戸時代を考えるだけで、今の暮らしは本当に恵まれていると感じる。(もしかしたら細胞状になってる長屋は思ってる以上に暖かかったのかもしれないけど、)江戸の人達は今よりもずっと地に足を付けた商売をしていて、(それが辛い事なのだとは断定はできないけど、)体と共に生きていて、一生懸命働いて、食べて、冬はとても寒くて、火事が起きる恐怖を感じ、異常気象などで飢饉が起こる事に恐怖を感じ、疫病が流行る恐怖を感じ、もちろん娯楽や家族や、友達関係や子供がいる事など幸せで楽しい事も沢山あるけど、今よりもずっと厳しい環境でやっと1年が終わり、春を迎える準備をし、お正月を迎える。そこにお節料理があって、お魚があって、お豆があって、かまぼこがあって、たまごがあって、家族があって、お風呂に入って、新しい服を着て、それで、とても幸せなんです。

私は将来、寒い冬を過ごすのは絶対に嫌だし、今みたいに美味しいものを自由に沢山暴飲暴食できないにしても、自由に食べられる暮らしがしたい。ひもじく暮らすのは嫌。こういう事をわざわざ口にしているという事は、私は将来おばあちゃんになったら、暖かい部屋にいられないかもしれないという心配をしているし、毎日ご飯をちゃんと食べられないかもしれないという心配をしている。歴史的にそういう時代はあった。理由はそれだけで充分だ。過去に起こったと伝えられている事は、少なくともどこかで起きた事があって、嘘じゃない。

レ・ミゼラブル」のラストシーンではフランスの大衆が「明日がくる!」って言って終わるんだけど、(今のところ)必ず明日は来る。無常にも、暖かい太陽と一緒に。

今の私には、その明日に、この国がどこに行きたいという意思をもって動いて行くのか全く見えない。それが怖い。見捨てられ、犠牲になった民衆は歴史上沢山いた。自分がシステムから切り離されない保証はない。そこで子孫を残し、続いていく希望という営み。男に騙されて理不尽ないじめと嫌がらせにより娼婦になり病死したファンティーヌ。その娘コゼットを救うジャン・バルジャン。家族を見つけるコゼット。それぞれに理由があり、ミゼラブルでも役割があり、私は、私が今できる事をするだけ。無力だけど。この物語が存在する意味と理由だと思う。
できれば私の両親に報いるため、おじいちゃんやおばあちゃんにまた会うため、私は責任を持って痕跡を残したい。その人達が寒い冬に毛布に包まれない日がくるかもしれなくても、諦める訳にはいかない。また大げさなんだけど、この映画を見てそう思った。