ついった

私はついったが大好きだ。
みんなに中毒っぷりをどんなに非難されても大好きなんだ。

いつもいろいろな発見があるついっただけど、私にとってのついったはどんなモノなのか考えてみた。

アウトプットツール

海外に住んでいると、日本語以外の言葉を使う。自分の言葉以外で自分のことを表現するのは予想以上に疲れることだって気が付いた。日本人と会わなければ日本語は使わない。しかも、小さな会社で働いていると接する人間もとってもとっても少ない。これで過ごした3年間は本当に厳しかった。今から考えてみると恐ろしいなぁと思う。

そんな私にとって、ついったを始めた事はもう革命みたいだった。
知らない人の新しい考えをどんどん聞くことができて、楽しく止まらなくなるのは当然としか思えない。
いつもだったら会うことができない人がつぶやく内容を想像するだけで私は外の世界に出た。と思った。

私も「つぶやき」というレベルまで自分の考えを言葉で表現することで、私のアウトプット量は劇的に増えた。私の精神も安定してきた気がするし、社会的な対人バランスが戻ってきた様な気がする。(ただし、ついった軸のバランスの様な気がするけど、むしろ好き。)。これまで外国語と外国のモノをひたすらにインプットしてきて限界に来ていたと思われる自分に自由なアウトプットを与えてくれたと思う。もう今では生活インフラ。

私がついった中毒な一番の理由はここだと思う。

その他にもついったってこういうモノだなって思ったりしてる。
例えば

平安時代の奥ゆかしい衝立デート

昔、デートをする時は蚊帳みたいな衝立を間に挟んで和歌を読んで会話をしてたんだって言うけど、まるでそれだなって思った。相手の本当の顔は見えないけど、アイコンという蚊帳の中のイメージと、140文字を使って表現する言葉。


・コミュニケーションの裏返し

世界が狭くなって来て、人と距離ができたって言うけど、やっぱり人とは離れられない。リアルでの足かせを外して、誰かと分かり合いたいって思ってる。それがTLって言う必ずしも対話じゃない文字でのやり取りで発散するだけ発散してる方法だとしても、それはお互いに少し寂しくなくて、たまに交わる感情は嬉しすぎる。


とか、色々思ったりするんだけども、一番楽しいことは、普段では出会えない人にもここでは出会える簡単さががあること。そこに存在することを皆で楽しんでいる。来るもの拒まず、去るもの追わず。